民衆は踊り、躍らされる
どんなに度し難い事件や事故があったとしても当事者以外が関与すべきではない
裁くは我にあり、と「正義」の魅力の虜になる皆は純粋に善だ。
善だからこそ、怖い。明確な悪は倒せばよい、全うな手段を持って。
この世に小説やドラマにおける天誅を加える人はいない、現代社会においては。
天誅を加えた人間は理由はなんであれ、犯罪者と化す。
目の前の許しがたい出来事、許しがたい悲劇に己の正義を燃やし声高高に叫ぶのは結構なことかと思う。ただ思う、その正義は誰かによって着火されたものではないか。
扇情とはよくいったものだ。情を扇ぐ。
人にとって情を神輿のように担がれるのは心地がよい。誰だってそうだ、私だってそうだ。しかしそれはあまりにも悪魔的な甘露であり、盲目的なものである。
ただでさえ人々には、金・仕事・時間などで不満が募り募っている。それに正義のためという薪を放り込まれるとあれよあれよと燃え盛る。
よくよく冷静にして考えよう、その正義は己の正義か。
法の下に平等を信じられない不信感
これは紛れもない事実だ。ではそれがきちんと守られているのか、
それが疑わしく感じてしまうのが、哀しきかな今の日本だ。
「上級国民」というスラングもそういった疑惑や不満から来てつくられたものではないだろうか。
士農工商という身分制度はなくなれど、経済状況や家の生まれによって格差は確かに存在する。格差社会は確かにある。
しかし、そこに法律は、司法においての格差はあるのだろうか。
あるとすれば現在の司法は正しくないということになる。しかし勘違いはしないでほしい。悪ではないのだ。
悪とは明確な意思をもって人の自由や思想を害するものだ。その場合は正しき手段に従って悪を然るべくところで裁いてもらうに限る。
だが今のSNSや世の声はどうだろうか、
「正義は我にあり」と一個人の情報を晒し叩き上げている。
その者がいかに許しがたい悲劇を生み出していたとしても、その当事者や司法の者以外に裁く権利などありやしない。
その者を磔にし、石を投げているに等しい行為はただちにやめるのが賢明ではないか。
その時間を次の悲劇が始まる前に防ぐ手段を考えたり、己の技術を磨いたり生きていために知識を吸収するのが良いのではないだろうか。
私は決して加害者をかばい立てるという思いはない。とても胸が張り裂けそうで哀しい悲劇だと感じるほかない。それしか我々にはできないはずなのだ。
私は唯一許せないというならば皆の正義を金儲けのために無闇に煽り、意気消沈とし生きる気力や希望を見出せずにいる遺族のものに「今の気持ちは」と土足で上がりこむ有象無象の輩である。
遺族の気持ちを引き出してどうする?これ以上遺族を傷つけてどうする?大切なものを失って哀しいに決まっている。気持ちを聞くにしても年数を経て訊くのが人の道ではないのか。
いま、皆は踊らされているように私は見える。マリオネットのようだ。チャオ。