捲れよ本のページ、と私は推奨した
本って最近読んでいますか?
私はいま、図書館から借りているものですがこんなものを読んでいます。
決して奴隷を買おうとか、人を奴隷のように扱おうという訳ではないですよ。
ローマが当時奴隷という存在をどのように扱っていたのか、奴隷とはどういう存在であったのかということで借りました。
とても面白く、南米奴隷とは違うあり方にとても興味を惹かれました。
好奇心はあるか
本を読む理由ってなんでしょうか。知識を得たい、時間をつぶしたい、面白い物語にひたりたい等、人さまざまでしょう。本を読みたいという理由は十人十色ですがその根本は好奇心にあると思うのです。好奇心は猫を殺すなんていいますが、度が過ぎたものではない限り好奇心は人間が人間らしく生きるために必要な要素だと私は強く思います。
書店はアミューズメントパーク、古書店はとレジャーパーク
私は仲のいい友人とちょくちょく訳もなく書店へ足を運びます。それは餓えた好奇心を満たしに行くためかもしれません。新しい本を扱う書店は、私にとってアミューズメントパークにある遊具に近い感覚です。どれもかれも輝いて見える。あれも読みたい、こんな本があるのか。気になっていた作家の新作だ。技術書でこういう本が欲しかったんだ。と目を爛々と輝かせ丁寧に慎重に本を吟味します(本は生ものです。吟味する際は扱いにはご注意を)。
古書店は普通の書店とは違った魅力があります。普段興味がないものでも興味が湧いてくる不思議な力がそこにはあると私は信じてやみません。友人は囲碁を嗜んでいて、非常に貴重な囲碁の書に目を輝かせていました。私は地図や郷土資料・歴史に関するものに非常に興味があり見ていたのですが、以前はそういったものに興味はありませんでした。古書店に通ううちに不思議にそういった歴史に関する書籍に興味をもつようになったのです。冒頭であげた本もその影響で借りたものです。
古書店は素晴らしい。新しい本のみを扱う書店とは違う魅力がそこにあり、貴重な本がぽんとそこにありさながらトレジャーパークです。
どんな本でもいい読みたいものを読もう
よく本は良いから読もう!ね!読書しよう!と人に押し付けに近い推奨をする人がいますが、あまりいただけない行為だと思います。本は自己から進んで自然に読むものです。人に押し付けられてよむものではない、私はそう思います。
マンガだって立派な読書です。新聞だって、地図だって、なんだって。文字や絵があるものがあればそれはすべからく読むと読書だと私は自己定義しています。
好奇心を満たしましょう、チャオ。
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★余談★
本がなんか苦手っていう方はこのマンガをお勧めします。
本が苦手という方でも読みたいかも…となるかも?
そのライダー!可憐!
仮面ライダージオウ面白くなってきましたね!
いや平成ライダー20周年にふさわしいワクワクがとまりません。
仮面ライダーの歴史は長く、平成だけでも20周年です。
その中で主役ライダー以外にもサブライダー、悪役ライダーともバリエーションは増えてきてコレクター泣かせと言いましょうか。
その中で女性ライダーという存在は知っていますか。
この話をすると論争が起きるんで起源がどのライダーという話は置いておきます。
しかし、女性が主人公のライダーってないんですよね。サブライダーとしてキーキャラクターとして出てくるんですが主人公っていうのはいない。
『仮面ライダー555』は前作の『仮面ライダー龍騎』の次回作として予告されるときに、恐らく多くの視聴者が誤解する予告を流し、次回のライダー主役は女性か!?と
思わせましたが実際は俳優、半田健人さんが演ずる「乾巧」が主人公ライダーでした。
この予告ですよ、ロン毛の男が怪人で女の子が闘うんだな…と思いますよね。
女性主人公である必要性
僕は個人的に見たいだけです。
別にね、女性の社会進出とか女性に光を当てたものをつくってみたいな政治的な考えは一切ないんですよ。
ただ女性主人公のライダーが見たい、それだけ。
いままでの男性主人公では見られないヒーローとしての葛藤、女性ヒーローでしか出せないアクション。そういうのが見たい。
女性のスーツアクターだってこの界隈で有名な方はいます。
例を挙げるならば、『仮面ライダー 鎧武』に出てくる仮面ライダーマリカ、この変身者が佃井 皆美さん演ずる湊耀子だ。
この人は役として湊耀子としても、スーツアクターとしても活躍している稀有なパターンではないかと思う。
いや、なんかこうカッコいい…スピンオフとかVシネとかじゃなくて49話くらいで監督は坂本監督で脚本は小林靖子さんで、そそ穏やかなようでえげつない作風にね。
スーツアクターも、変身前の役者も同じにするのはなかなか難しいかと思う。
スケジュールやそういう問題だ。
なので変身前の役者、変身後の役者を両方とも女性にして活躍するライダーをいつか見てみたい。だがデザインは女性らしさとかそういったことを意識せずいちヒーローを意識したデザインだといいなと思う。
そして本当に個人的な欲望で師匠役にミスター平成ライダーこと高岩さんを出して欲しい…チャオ
世の中にウソは溢れている、けれど人は真実が見えている
SNSでよく「~~店でひどい目にあった」「~~でこんな被害にあった」という利用者からのリークがあり、それを目にした人がこれは酷いと拡散をする現象が起きているのは皆さんもよくご存じのことだろう。
だが、そのリークを丸呑みして拡散し「加害者」を叩き「被害者」を擁護するのはいかがだろうか。
そのリークは投稿者の都合の良いことばかりを切り貼りしたものではないか、と一度止まって考えてみたらどうだろうか。
人の記憶というのは良くも悪くもできていて自分に都合の良いことを鮮明に記憶していることが多い。
たとえば、昔に学校で先生に𠮟られた記憶だ。
その記憶では先生が悪役で、自分は「被害者」になっていたりしないだろうか。
別段悪いことはしていないのに理不尽な怒られ方をした、と記憶しているとしよう。
実際は当時の自分の過ちを怒られることが怖くて認めなかったことで先生の反感を買い、盛大に怒られたというものだとしたら。
別にウソをつくつもりではないのだと思う、恣意的な悪意はないのだろう。
しかし、記憶と実際の出来事を照らし合わせるとウソになる。悪意のあるように傍からは思われるかもしれない。
記事はすべてを映し出した文章ではない
新聞の記事も出来事をすべて描写はしていない。そのようなことをしていたら新聞は毎刊ごとに今の数十倍の厚さになることだろう。必要最低限な部分を記者の裁量で切り貼りし読者に伝える。ましてや素人が突発的に書いた記事など出来事のレイアウトのオンパレードだろう。
それをすぐに真に受けるのは少々危険ではないだろうか。そして己の正義感に任せて拡散し、あまつさえその「加害者」に対して問い詰めるのは恐ろしい事だ。
皆、正義を持っている。悪・不正を許せない、弱者を虐める輩なぞ放っておけない。
素晴らしいことだ。いや皮肉ではない、本当にそう思う。その正義を失くしたら人は人でなくなる。だが正義は人を殺す。大げさな表現ではない。正義は時にナイフより鋭く、どんな劇薬より人に苦しみを与える凶器になる可能性を持つのだ。
多くの正義のヒーローは必要か
ではその多くの正義感があるヒーローは何故、最近になり多く増えてきたのだろう。
そこには現在の日本の社会の闇が原因かと、私は思う。ブラック企業、虐待、残虐な殺人、陰湿ないじめ。世は酷く濁ったように変わった、と思われても仕方ない有様だ。
心が痛むようなニュースは毎日TVや新聞、ネットで流される。
そこで人々は私が「悪」を成敗せねばという気持ちが高まっているのではないだろうか。そこに正義が生まれるのだ。酷く歪んだ正義が。
最近で小学4年生の女児が父親に虐待され亡くなったニュースがあった。児童が学校に対して必死の思いで助けを出したアンケート。それは秘密裏にされるべきものだったが、教育委員会は父親の脅迫に負け渡すという大失態を犯した。また続けて児童相談所にも児童に助ける機会があったのにも関わらず見逃すという失態があった。
それに対して、「なんてことだ。許せない」と思うのは人として真っ当な感想だと私は思う。
だが私が頭をかしげるのはそこからだ。現在ではそこの教育委員会や児童相談所には大量のクレームの電話が入っているそうだ。
関係者がクレームや異議の電話をするのは、問題解決のための方法として必要なことだ。だが無関係であるその他大勢の正義のヒーローが電話をかける必要はどこにある。
かけて何か変わるのだろうか。むしろ本来に行わなければならない業務の遂行の足を引っ張ているのではないか。正義の暴走は怖い。自身は正しいと思っているからだ。
どこぞライダーの言葉を借りるならば「人は正義のためならばどこまでも残酷になれる」。
正義は薬にも毒にもなる、そのことを意識している人はどれだけ多い事だろう。
記事を見るときに気を付けること
話が少し逸れたので戻そう。
もしSNSで「~~という被害あった」という投稿があったとしよう。
それは真実でもあるし嘘でもある可能性あることを頭にまず浮かべて見てほしい。
そして安易に拡散をしていいものか、と考えてみよう。
もしその一部が真実だとしても、自分はあくまでも記事の読者なのであり裁く権利があるものかどうかをよく考えてみよう。
もしその記事が故意に嘘だとしてもそれを必要以上に叩くことはやめよう。その叩く事で人は呆気なく死んでしまう可能性があることも考えよう。
まるで小学校に道徳の時間で習うようなことだが、案外それが成すことは難しい。
人は正義のためにウソが真実と見えてしまう、視野が狭くなってしまう。
自分が見ているものが正義だと真実だと思いたいのだ。
ただ一度止まってみよう。後ろを振り返れば違うものが見える。上を見れば綺麗な空が見える。世の中、濁った中でも輝くものがあるものだと気づくかもしれない。
ちなみに言葉を借りたライダーはこの作品だ。
え、販促みたいだって?そんなことないですよ?嘘みたいだって?え、そりゃ困ったな…ウソかどうかは自分でちょっと考えてみてくださいよ、ではチャオ。
リワーク その後
リワークに本格的に参加することになり、これから通所を出来るだけ続けて次に繋がるようにしていきたい。
そんな思いで今、眠さに負けず通っています。
さて、行くからには何か収穫が欲しいところ。
基本的に午前はパソコンを触り、Javaの勉強やタイピング練習。
そしてお気に入りのニュースサイト巡りをして、気になる記事があれば感想を入れてTwitterに投稿という自由気ままに過ごしている。
勉強に少し疲れたら、読書を数ページ進めてまた再開させるという自分なりの無理のないペースでスキルアップを図っている。
今日はなにかと収穫が多い日だった。
今まではあまり他の利用者の人と話すことはなかったし、午後のグループワークは見学のように見ているだけだった。
それが今日は話す人がかなり増えたのだ。
お昼の時に隣に座っている女性の方が、なにかプレゼン資料を大事そうにクリアファイルに入れていたのでつい気になり「それって何かの企画ですか?」と訊いた。
訊かれた相手は目を丸くして少し驚いた様子だったが、「あ、これ私が作ったんじゃなくて…」とイラストが貼られ説明文の載った紙を隠しながら恥ずかしげに語ってくれた。
その方といろいろと話し合ったと思う。
話し合ったというよりは正確には自分が相手に本で得たライフハック知識を披露し、相手が「すごい!そんな方法が!」と驚いて私が言ったことをメモしていた。
私は今までになかった満足感、相手が喜んでいる、役に立っているという自己肯定感を得た。
話を少し逸らす。
私ははっきりいって自己肯定感がない。自身が嫌いで嫌いでたまらないのだ。そこも精神疾患の原因のひとつなのだろう。ただこれは昔からなのだ。自分のことを認めることが出来ない。
それを赤裸々にスタッフの方に相談した。
スタッフの方曰く「そういう方はうちでも多く、やはりうつ病などになりやすい」とのことだ。そして、スタッフの方は私にこんな提案をしてくれた。
「できたこと日記をつけたらどうか?」
これは些細なことでもいいから、1日で自分が出来たことを簡単に書いていくものだ。例えば、長く歩くことができた。朝に起きることができた。こういったことでもいいのだ。
その自分のできたことを書いていくことで自分はちゃんと出来る、やることがやれるという自身を意識に根付かせる一種の療法のようなものだ。これは心療内科でもおススメされているもので、これによって自己肯定感を高めることが出来るという立証もあるとのことだ。
私はさっそくノートを買い、1日で出来たことを数行に分けて箇条書きで書いていった。まだ始めて数日なので効果を実感できない。だがこれが病の根幹を治すものに繋がるのなら願ったり叶ったりだ。
話を戻そう。
そう、久しぶりに自己肯定感を得た私だったのだ。そして私が持ってきているトートバックが可愛いだの、チベットスナギツネが好きだの話していると相手の女性からある提案があった。
「ビブリオ大会に出てみませんか?」
ビブリオとは、自身が読んだ本の感想を相手がいかに読みたくなるように説明できるを競うものだっけか?興味があるものだった。付け加えるとそのビブリオ大会は本だけでなく、趣味や映画などを語ってもいいらしい。二つ返事で参加することを告げると相手はすごく喜んでくれていた。私はここに来て良かったな、と心から思っていた。
その後、ビジネススキルについてのグループワークがありそれも飛び込みで勇気を出して参加した。テーマは「印象」であり、どんな印象を持たれているのか。どういう印象が好まれるかを学んでいった。
私は真面目、綺麗好きそう、コミュ力があると云われたのだが…うむ?
そしてそれが終わった後に予約していたジムに行った。なんとここでは無料でジムに行けるのだ。
行ったジムは少し特殊なジムで、サーキットトレーニング。異なる運動を連続して行うことをメーンとしたものだった。
これが割とキツイ。サーキットが一周終わるとフラフラになっていた。だがこれは筋肉も鍛えられるし、脂肪燃焼にはもってこいのものだ。
明日も通うことを決めて、ジムを後にした。
そうだ、スタッフの方でプロテイン愛飲者がいたのだ。それでおススメされたメーカーがあった。名前はiHerb。海外のメーカーだ。
これは本来の内容とはかなり逸れたものなのでサラッと買いておく。
コスパ良し、フレーバーもチョコミント味なんてものあるほど種類があり、筋肉をつける効率も良いとのことだ。いまはSABBATHのプロテイン(ココア味)を飲んでいるが、次はそのメーカーにしてみようと思う。
チャオ
TENGA黒ハード(地獄変)
ある日私はとある人物にTENGA黒ハードを買えよ?買わねぇとな!これだからな!これ!と脅迫された。
TENGAとはなにか?と純粋でピュアな方は引き返した方がいい、いや引き返すなら今しかない。逃げろ、穢れのない場所まで!
改めてTENGAとはなにか?
これである。
見た人も多いはずだ。アダルドグッズのカテゴリーに入って置きながらそのデザイン性と会社の経営スタイルで従来のイメージを払拭した男性のためのトレーニング器具である。
もう一度言う、トレーニング器具である。
このTENGA、種類も豊富にあり値段もピンキリである。安いものは500円程で高いものは1万近くするものもある。
そしてその種類の中には初級者向け、中級者向け、上級者向け、玄人向けといった具合のカテゴライズがしてある。
敢えて何が違うのかは明記はしないが、察しの良い方なら察してそのままその言葉を飲み込んで欲しい。
私は平然としながらも、内面では勇気を振り絞りある人物が指定するTENGAに手を伸ばした。
玄人向けである。
この毒々しいデザイン、少しカッコいいという錯覚を覚えるがあくまでもこれはトレーニング器具だ。前衛的なインテリアではない、消耗品なのだ。
私はこれを女性店員に差し出して購入した。
時を少し遡ろう。私はこれを買う前に過ちをおかしていた。
指定された商品とは別のものを購入してしまっていたのだ。これだ。
似て非なるトレーニング器具。お値段1300円程(税込)。さらに返品が面倒なIDでの決済をしてしまっていた。
あとで間違いに気付き、供にしていた友人を次に行く目的地に先に行っておくれと促す。大切な友人の時間をTENGAを買え直す時間に費やすのはあんまりだと考えたからだ。
そして私はまた気だるそうな女性店員に声をかけた。買う商品を間違えた、交換は出来ないか、と。
返品は可能だった。しかし試練があった。
女性店員がインカムを手に社員を呼び出している。なるほど、返品はパートでは出来ない処理か…と思っていた。その時である。
「先程TENGAを買われたお客様が…」
と女性店員がインカムで伝えるのを聞き逃しはしなかった。生き地獄、これが羞恥心の極みというものか。
やがてヤクザ映画顔負けの強面の社員が来て、現金で返金し指定された商品を再購入。
これであとはトレーニング器具を消耗するだけ。これで幕引きだと思っていた。
…が、ダメ…!
早速お風呂場へこそこそと入り、いろいろと準備をして、いざ!!
……ん?入らない?
いや、ここで引きさがれるか。えいや、と力を込めた。
中には入った。しかし、違和感…いや痛みを感じた。そして私は見たのだ、あのおぞましき光景を…!出血…!紛うことなき負傷!
男ならば分かるだろうか、この痛みを。
それでも私は引き下がらなかった。たった一度与えられた命はチャンスだから。
擦り剥けた。
頭の中で「no fear、no pain 恐れるものは何もない」と励ます歌が流れた。
そうだ、ここで負けるわけにはいかない。
私は決死の覚悟で押し込んでいった。
「おっほ!」
お分かりいただけた、だろうか。
齢28にもなる男が男のためのトレーニング器具をいそいそと風呂場で使い素っ頓狂な声を出している。これが大人の姿とでもいうのだろうか……。
結論:
TENGA黒ハードはいろいろな意味で皮が厚いもの、刺激を求めるもの、痛みこそ快楽の至高という上級者、いや玄人にしか扱えぬものであり安易に手を出してはいけない。
その力たるや男の力で力を込めて握りしめているの如く。決して誇大表現ではない。
なお、これはあくまでも個人的な感想であり、脅迫をしてきた人物は男ではなく女性であり、私のこの現状を「やばい、面白い」と言う妖精の姿をしたなにかである。
その女性は平らな…ん?誰か来たようだ、チャオ!
しょっぱいコーヒー
恥ずかしながら私は30近くにもなって、未だに親のスネをかじっている。
持病があったとしてもこの状況から早く脱したいと思っている。
その思いを親には伝えている。
伝えているが、その思いを、期待を何度裏切ったことだろうか。
その度に親の落胆した顔が浮かぶ。
母はせせり泣き、父は情けなさそうに首を垂れる。
私は部屋の隅で土の味を噛みしめるように子どものように泣いている。
情けない。
その度に幾度死のうと思ったことか。
いや、何度か死のうと試みたが命というのは丈夫でなかなか絶てぬ。
あげく、病院に入院し新たな負い目を築く。
前職は奮起し、良い企業に入れここで真の自立を目指していた。いたが、その思いは早くも頓挫した。
体が自身の言うことを聞かない。たっぷりと睡眠をしたのに日中に立っていられないほどの眠気が襲いかかる。
当然、そのような状態でろくな仕事は出来ぬ。
会社からその状態をまず治すことが第一だと諭され辞めた。
悔しくて、情けなくて、辛かった。
なぜ出来ない、なぜ続かない。
私が甘いからだろうか、心が弱いからだろうか、自分の芯といえるものがないからだろうか。
自身の負い目ばかりが頭を巡り眠れなくなった。医師に睡眠薬を調剤して飲んでも満足に寝ることが叶わぬ。
ある日、私はカフカの「変身」を読んだ。朝起きると主人公グレゴールが毒虫に変身しているという話だ。そしてその毒虫は家族から忌み嫌われ、やがては生き絶えてしまう。
家族から化け物や厄介者と言われ、何も言い返すことができない。私はグレゴールを憐れみ、共感した。
そしてこう思った。私も今、グレゴールと同じく毒虫のような存在ではないか、と。
何も出来ず、親から厄介者扱いされ、言い返すことが叶わない。やがては朽ち果ててしまうのだろうか。グレゴールと同じ道を辿るのではないか。そう思うと彼の境遇があまりにも理不尽だがありふれたものに思えた。
また、恐怖した。私は親から忌み嫌われないように機嫌伺いをし立ち振る舞う人生を歩むのだろうか。
親には言葉に出すと矮小に聞こえるだろうが、感謝している。恵まれた環境にいると我ながら思う。だがそれが伝わらぬと親は言う。
親が求めているのは、私が普通の人のように働く様を見ることだ。だがそれは出来ないことだろう、私たちは一生この甲斐性なしの世話を見て詰まらない余生を過ごす羽目になる、人生を振り回されるのだろうと言う。
なるほど、私は親からの信頼というものが一切なく、期待はまるでされていない。目の上のたんこぶで消えるものなら早く消え去って欲しい、と望まれているのだ。
私はその現実を一瞬でも見たくなかった、頭を冷やして明日へ歩むために喫茶にでも行きコーヒーでも飲もうかと荷物をまとめ玄関へと歩んだ。
だが、それすらも止められる。
「逃げるのか!私たちはこんなにも辛いのに!自分だけ楽になろうとするのか!」
私は悲しさから逆の感情が喉元から上がってくるのを感じた。何故だ。何故、逃げることが悪なのだ。一瞬だ、少しだけでもこの地獄のような状態から逃げるのが人間の性だ。ここに留まってどしりと腰を据えるほど私はタフではない。なぜ逃げさせてくれない。
なぜ逃げることをそんなに嫌う。私がいつも逃げているように見えたのだろか。何を見ていたのだ、貴方たちは。
荷物をしきりに引っ張る母に、つい声を荒げてしまう。そうすると、母はよよと泣くのである。なんでそんなことを言えるんだ、と私に泣き叫ぶ。五月蝿い、五月蝿い、五月蝿い。
貴様らの言うことなんざ聞きたくない、見たくない。
たくさんだ。私は家を出て、街に彷徨うように歩き喫茶に寄った。一杯のコーヒーを頼み、席に崩れ落ちるように座った。
そして親友に助けを請いた、少女のように泣き、己の中の苦痛を叫んだ。親友はそんな私の甘えを暖かく聞いてくれた。それだけで十分に心が癒された。
私は、私はただ辛さを聞いて欲しかった。それだけなのだ。そして、それを受け止めてくれるだけで良かった。
それらをしてくれたのは、家族ではなくネッで知り合った親友だ。紛うことなく親友だ。
落ち着いてすっかり冷めたコーヒーを一口飲んだ。苦味としょっぱさが混じる、切ない味だった。
コーヒーは栄養ドリンクじゃない
コーヒーが栄養ドリンクになっている
いやいや、コーヒーにはカフェインがあるだけでタウリンとかそんな化学調味料なんか入ってないでしょう、言いたくなる人がいることだろう。
私が言いたいことはそうではない。
コーヒーとは本来は少し落ち着きたい時に飲んだり、読書や話し合いのお供に、ゆったりとした空間を作り出し浸るためにあるべきだと私は強く主張したい。
しかし、現在のコーヒーの扱われ方はまるで栄養ドリンクのように疲れを紛らわすために、もうひと頑張りしたいときに、ここぞというときにといった具合に飲用されていないだろうか。コーヒーを飲むというよりカフェインを摂取するのほうが近い。
そのためにコーヒーか墨汁か見分けのつかないただ苦いだけの飲料を今の人は飲みすぎているのではないか。
コーヒーの栄養ドリンク化はなぜ起こった?
理由は単純で簡単なものだ。Elementary, my dear Watson.
現代の人にさまざまな面で余裕が大いに欠いているからだ。
昔の様なゆったりとした雰囲気の喫茶店も淘汰されてきて、コーヒーを飲むとすれば
多くがチェーン店だ。店員が忙しく動き注文を聞き、時には客や同僚に怒られている。
経済的に余裕がない点をまず挙げよう。昔ながらの喫茶店のコーヒーは手間がかかっており豆もかなり店主により厳選されており一杯の単価が高い。そして必ずしも美味しいとは限らない。賭けのようなところがある。
しかしチェーン店となると味は確立されているし、マスプロやその他の企業努力で安くいただける。手軽にほどほどに美味しいコーヒーを飲めるのだ。
経済的に余裕があれば、店選びという冒険も気軽にできる。しかし今は昔のコーヒー一杯でランチをしなければお財布事情が厳しいのが多くの働く方の現状ではなかろうか。
次に、時間的に余裕がないことだ。コーヒーにはサイフォン、ネルドリップ、エアロプレスなどの抽出方法がある。それは注文を受けてから用意することがほとんどで注文から提供までには少々時間がかかる。およそ~5~10分程度だろうか。
しかし、現在のコーヒー求める人々はそこまで待てない。いますぐにコーヒーを手元に持っておきたいのだ。なので多くのチェーン店では独自の機械式コーヒーメーカーを使い、秒単位で提供できる努力をしている。これは企業の努力を褒めたたえるべきなのだが、コーヒーはそこまで急いで飲むものだろうか?と私は問いかけたい。
中にはその数秒すら惜しいという人もいる。なにを急いでいるのだろうと某喫茶店で働いていた私は当時感じていた。急いでまで飲むコーヒーの味は美味いのだろうか?ゆったりと一息ついたときにに飲むコーヒーこそ至高ではないか。
それがたとえ多少提供に時間がかかっても待てる時間的余裕があってこそのブレイクタイムだ。急いでコーヒーの様なものが飲みたいならお湯とインスタントコーヒーを混ぜてマグカップに入れて喉に流し込めばいい。
最後に心の余裕だ。人間は生きる上で何かしら問題を抱える。それは誰でも例外なく降り注ぐ平等だ。
しかし現代社会は心にかかる負担が増えている。そして、その負担を分散させる解消させる機会も失われつつある。
ストレスやら心労の負の貯金は増える一方で、心の豊かさは失われていく一方だ。
コーヒーの本来の魅力を思い出してほしい、豊かなコク、香ばしい匂い、絶妙な苦み・酸味。
喫茶店で流れるどこかで聴いたことあるようなジャズ、適度に静かな店内、古臭い様で味のある机や椅子。
コーヒーをどう飲もうが人の勝手です。ですがコーヒーが持つ魅力を今一度思い出して、たまにはゆっくりと時を贅沢に使用してコーヒーを飲んでみたらいかがでしょうか?
チャオ